神の論理

クリフォード・ジェームス

 

なぜキリスト教を信じるべきなのか?キリスト教は世界の中でもっとも大きな宗教というわけではない。なぜ論理的に意味を成さないものを信じるべきなのか?

仏やモハメッドは宗教的な主張に対する証拠を持っているだろうか?これらの大きな宗教についての調査は間違いが含まれていることを証明した。モハメッドは真実を見つけたといっているが、それが何であるかを明らかにしていない。仏は真実を求めるといってますがそれを見つけたとはいっていない。

イエスは唯一神の真実を言っており、それにわれわれは従うべきだ。もちろん彼が神の真実であるというとき神様は存在すると想定する。

ではなぜ神が存在すると信じるべきか?結局百聞は一見にしかずではないでしょうか。

神がいないのなら、もちろんナザレのイエスは神の子ではなかったし、霊というようなものはなかった

特に神がいないのなら存在しないことになるので聖霊と聖書は神の表れではないということになる。

もしそうなら、教会は単なる冗談に過ぎない

もしそれが嘘でなければ教会をリードしている人は少なくともだまされていることになる。もし神がいないのならば道徳的に正しい、間違いというようなものはないと考えなければいけない。法律によって承認、不承認されたものだけがあり、秩序を守るために必要なものだけがあることになる。

 

最初は独学的に見えて、皮肉的に見えるが、その見方はメリットがある。物事が始まり、しばらく存在し、過ぎ去っていく。物事は絶対的な形、重さ、大きさがある。人ははじめから終わりまでその起源をたどることができる。自分たちを含むすべてのものが存在という通過点を通る。

生きている過程で後悔や意識することなしで食べたり飲んだりするであろうか?結局天国がなければ、地獄もないことになる。

多くの人は人が自分に深く根付いた永遠に生きるための要求を満たすために神を作ったと信じている。人が神を使って混乱をコントロールしたり恐れなしで存在することができるために社会を治めたりする。

私たちはこのプロセスを市民化するといっている。

神はただ人の想像上の創造物でしょうか?人が神を作ったのでしょうか、それとも神が人を作ったのでしょうか?これらの問題を扱うのなら私たちがこれらのことを証明するまで、聖書を使っていかなる証拠を支持することはできない。

 

A.       神がいる

B.       聖霊の世界がある

C.       キリストは神の子だ

D.       聖書は神の言葉だ

 

私たちは最も初歩的な論理を使ってすべての宗教は偽でありまったく無視されるべきで完全に破壊されなければいけないと結論するか、これらの声明を証明しなければならない。

世代を通じて科学は神の存在は神話やおとぎ話の何者でもないということを証明しようとしてきた。

 

ある科学者は人生と革命の車輪を動かせた宇宙爆発というものを信じ、かなりの時間を費やし研究した。ほかの人はすべての結果は偶然にもタイミングよく重なり合って命を作り出したと信じている。 命の光は始まり奇跡的に生き残り発達し、5つの感覚や、自分で癒したり再生したりすることができる。 何の助けも借りずに もちろん時間のイオンが必要だったが、生きているもの消滅したもの両方、われわれが知る形の命と進化したのだ。

もちろんこれは2つの複雑な疑問をもたらす。

 

1.      もし宇宙で爆発が起きたら、全宇宙があるはずだがそれはどこから来たのだろう?

2.      すべてのものがもし生命の始まりならそのものはどこから来たのか?

 

命は生き残るために少しの必要不可欠なものがある。それらは水や太陽、光、食べ物などだ。

食べ物はそれ自体、命の形である。これもまたミステリーである もちろん化学的な栄養を話すこともできるがそれらはどこから来たのかまた地球にどうたどり着いたのか。あるいは地球がそれらにどう届いたのか

これらの栄養物はどこまでさかのぼるのかまた、それらは生命を支えるのに正しい栄養であったのはどうしてかなどミステリーだらけだ。

 

大都市を通り過ぎるとき、瓦礫が放り投げられる光景を眼にしたことがある。鉄、ガラス、木、プラスチックなどあらゆる物質が自然に埃と化していく。埃が落ち着くと、瓦礫のそばにある完全な形をしたテレビを見て驚いた。そこには必要な機械がすべて整っていた。信じられないことに自然に起こった偶然の環境で作られた完璧なデザインだった。私はもちろんそれに電源を入れなければいけなかった。それ自体は電気は起こせないが、悪いところはなくきれいに映った。 信じられますか?

 

監視する人なしで歩くことを許してくれる一方で私はあなたに訴えたいものがあります。にもかかわらず、知性的な人間はこのひとつよりも常識を逸したものに納得させられることがある。学校で教わるよりももっと驚くべきことです。

 

人間の体は最小のものであるといっても言いすぎでない。 テレビの機械よりも100倍複雑である。テレビは見たり聞いたり味わったり、においをかんだり癒したり、自身で再生したりすることはできない。 楽しみや悲しみ愛や憎しみ恐れ達成などを経験する感情はない。

どこへいける手段があるわけでもないし、その好みに適した環境を作ったり立てたりできる能力もない

しかし生徒が教室で座っていて、教育のある人が知的な形の利益なしで偶然すべての命が始まったと教えている。

多くの人は知らない人が書いた絵を買って壁にかけるが、それを作った人がいるということは信じて疑わない。なぜか? なぜならそれは完璧なデザインでそれはデザイナーがいなければいけないからだ

私は自分のテレビを作った人も知らないが、それが宇宙の爆発によって短期間の間にできたのでないことは知っている。すべての正しい結末が完璧な水平や垂直にコントロールされた色つきの絵が保障されるためにあったのではない。愚か者でもそれくらいはわかる。しかし疑問なしでこのドリブルを受け入れた生徒によって、彼らは人間の体とすべての生命体を信じる。いかなる技術の製品よりも精巧だが 大きな偶然による結果なのだ。

 

完璧なデザインにはデザイナーがいる。絵には絵描きがいるように、疑いなくわれわれの存在には想像したものがあるはずだ。われわれは神の創造物ですばらしく作られていて神を模倣するように形作られている。神の創造物として我々は我々の神としてあがめないわけにはいかない。理にかなってはいまいか?これは明確に神聖な論理ではないだろうか?

神がいないと信じるのは我々が存在しないことを信じることであり、これゆえ論理的ではない。

われわれ自身が神の存在のもっとも重大な証拠だということを論理的に証明した。次にかつて考えられた最も偉大な質問に目を向けてみよう。神はどこから来たのか?それに答えるにはすべての質問が事実の声明によって満足されるものではない。ある質問はほかの質問と一緒に答えられる。これはそのうちの一つである。神がいると信じる人は神が永遠なるものであるということを知っている。いわゆる神には始まりがないこと。論理的に考えるとこれは合理的であるように見える。

神が始まったときの正確な地点を知りたい人々にいくつかの質問がある。数式のパイの終わりは何か?3.1415で始まるが、最も高い番号はいくつか?最初の2つの質問は簡単だ。東から西の距離は?円のはじめと終わりは何か?神の敵はわれわれが神を信じさせないことです。われわれは始まりや終わりのないものを日常使っているがそれらを数えたことはないだろう。

円のはじめと終わりがないと信じたら神の敵はほとんど気にしないだろう。我々が使うものに始まりと終わりがないものがたくさんあるがそれを把握するのは困難である。神もそのひとつだ。

しかし神はその存在を認めるなら神は我々を大いに気にかけてくれるだろう。

 

神は始めと終わりを創造したが、この一般的な規則によって限られているわけではない。多くの人は神は霊的で精神的なものは世に存在し、物体的な法則に縛られずに働き続けると思っている。顕微鏡の世界は、我々が見たり感じたこともない物の大きなスペクトラムを開いた。これらはわれわれの生活に大きくかかわりを持っている。目に見える物体は目に見えない細胞でできているがその細胞は本物である。ミクロの世界は小さすぎてみることはできないが、神は霊的な存在ゆえに見えなくても細胞とは異なる。私が言いたいひとつのシンプルな真実は、見るということは神の存在を信じるため、あるいは信じないための理由にはならない、いうことである。

精神的な世界は存在する。人が歌うことにより、作られる音は音速の振動を作る。

しかし、それは重さが量れるだろうか?見ることはできるだろうか?触れることはできるだろうか?

それは物理的な世界でインパクトがあるが、命を与えた言葉によって、音の力は精神的なものになることが可能だ。物質的なものは物質的なものに影響されるが、精神的なものは、精神的なものによって直接影響されない物体的な応答を得るのに必要な精神的な刺激を始めることが可能な考えがある。しかし考えそのものは物体的ではない。

そこで提案したい。もし物体的なものが物質的なものを殺すなら(銃弾が人を殺すように)何か物体的でないものを殺すだろうか?考えを持つ脳を殺すことは水の入っているコップを壊すことによって水を破壊することに似ていないだろうか?体は命という力によって機能する。それには形や色や重さはあるだろうか?
いったん死んでしまった人の体からがんを取り除いても生き返らないように命は車の修理のようにはいかないのである。

物体的なものは見ることができるが、一番大切なものではない。肉体はただ個人の精神面による命令によって仕えるだけだ。目に見えるものは影響され、見えないものに支配される。考えと体感が体をコントロールする。

怒りは何色かどんな形かご存知ですか?我々の生活にさまざまな影響を及ぼす愛や平和や楽しみはどのように見えますか?それらは物質的なものでなければスピリチュアルなものであり、本当のものであることを認めることになる。ということで精神的な世界というものがあることになる。そして体はそれらを包む容器に過ぎない。これらの見えない精神的な世界の存在を否定することはすべての思考、感情、理由を否定することである。この論理はそれ自体が精神的である。

論理的に精神的な世界があると証明できたので我々の創造主、神様はもっとも大きな影響であり、中心である。

神の計画を壊すために肯定的に働く神の創造物における働きの中で神の意に反する力がある。この力は悪と呼ばれる。すべての悪の土台は破壊である。創造において2つの主な力が働く。最初に作り上げる力である。

次に神が作り上げたものを壊す力である。

 

1.      物体的と精神的な世界をコントロールするデザイナーである、神は存在する

2.      神は完璧なバランス、順序、容姿に仕立てた

3.      ほかの力は完璧な神の創造を破壊する力である

4.      神は時間や空間によって限られるのではなく、永遠な精神的な存在によって限られる

 

神の本質は創造物の論理的な評価によって決定される。神は人間に他の生命体に対し支配することを許したので、人間が神の創造物に好意的な地位を持っていると決定できる

我々の創造主が愛がなんであるかを知るには神が愛を持っていることを学ぶべきである

神は楽しみ、平和、忍耐、柔和、親切な性質であることがわかる。これはまた、嫉妬やねたみ、怒りも神の支配にゆだねられている。

我々は彼の創造した物を見ることによって神を知ることができる。しかし、すべてではない。神の能力は小さい宇宙の片隅において見つけることのできる大いなる奇跡を達成したものをはるかに超えている

我々は自分たちの体を見ることによって体は分泌液が備わっていることがわかる。

神は体の危険信号として痛みを与えるが、しかしそれは迫害や拷問の道具としてではなく、体に回復する機能があるのは神は憐れみ深く親切で壊れたものを直し欠いているものを回復する機能を我々に与えてくれた。神は残酷というよりも、もっとよいものであるはずだ。慈悲深くないものに反して、慈悲深い、自己中心よりも自己中心でないというふうに。

そういった神の慈悲深い性質は我々の免疫システムに見ることができる。このことから創造主について大切なことがわかる。

 

1.      神は想像したものに対してすべてを壊すために働く力が存在することを知っている。そこで創造主は創造したものに特別な自己防衛のためのものを与えた

2.      創造主はこの破壊的な力から我々を守るために神の愛と気遣ってくれる。この贈り物をなぜ我々に与えたのだろうか?

神は我々を傷つけるものから守ってくれるように気遣うと同時に、我々が無意識に自分たちを傷つけるものにも平等に気遣っている。無実ということは神の計画の産物ではなく、罪と呼ばれる破壊的なモラルのウィルスの実であるということから苦しむという可能性を論理的に考察してみたい。神はこのウィルスを宇宙に持ち込んだのではなく、他の力が持ち込んだ。それは我々を守るための免疫システムを作ったのと同じ力である。

論理的にいえば、我々の周りの想像物は信じられない秩序とバランスを作り出している。

それを誰も論理的に回避することはできないであろう。

我々はどんな創造主もそのような混乱を許すはずがないと思うに違いない。そのような彼の完璧な創造物へのダメージは彼の怒りを引き起こすだけだ。

神の注意は創造の労働から、これに反対する力に必要な防衛するものへと変化しなければいけない。