神の論理

クリフォード・ジェームス

 

なぜキリスト教を信じるべきなのか?キリスト教は世界の中でもっとも大きな宗教というわけではない。なぜ論理的に意味を成さないものを信じるべきなのか?

仏やモハメッドは宗教的な主張に対する証拠を持っているだろうか?これらの大きな宗教についての調査は間違いが含まれていることを証明した。モハメッドは真実を見つけたといっているが、それが何であるかを明らかにしていない。仏は真実を求めるといってますがそれを見つけたとはいっていない。

イエスは唯一神の真実を言っており、それにわれわれは従うべきだ。もちろん彼が神の真実であるというとき神様は存在すると想定する。

ではなぜ神が存在すると信じるべきか?結局百聞は一見にしかずではないでしょうか。

神がいないのなら、もちろんナザレのイエスは神の子ではなかったし、霊というようなものはなかった

特に神がいないのなら存在しないことになるので聖霊と聖書は神の表れではないということになる。

もしそうなら、教会は単なる冗談に過ぎない

もしそれが嘘でなければ教会をリードしている人は少なくともだまされていることになる。もし神がいないのならば道徳的に正しい、間違いというようなものはないと考えなければいけない。法律によって承認、不承認されたものだけがあり、秩序を守るために必要なものだけがあることになる。

 

最初は独学的に見えて、皮肉的に見えるが、その見方はメリットがある。物事が始まり、しばらく存在し、過ぎ去っていく。物事は絶対的な形、重さ、大きさがある。人ははじめから終わりまでその起源をたどることができる。自分たちを含むすべてのものが存在という通過点を通る。

生きている過程で後悔や意識することなしで食べたり飲んだりするであろうか?結局天国がなければ、地獄もないことになる。

多くの人は人が自分に深く根付いた永遠に生きるための要求を満たすために神を作ったと信じている。人が神を使って混乱をコントロールしたり恐れなしで存在することができるために社会を治めたりする。

私たちはこのプロセスを市民化するといっている。

神はただ人の想像上の創造物でしょうか?人が神を作ったのでしょうか、それとも神が人を作ったのでしょうか?これらの問題を扱うのなら私たちがこれらのことを証明するまで、聖書を使っていかなる証拠を支持することはできない。

 

A.       神がいる

B.       聖霊の世界がある

C.       キリストは神の子だ

D.       聖書は神の言葉だ

 

私たちは最も初歩的な論理を使ってすべての宗教は偽でありまったく無視されるべきで完全に破壊されなければいけないと結論するか、これらの声明を証明しなければならない。

世代を通じて科学は神の存在は神話やおとぎ話の何者でもないということを証明しようとしてきた。

 

ある科学者は人生と革命の車輪を動かせた宇宙爆発というものを信じ、かなりの時間を費やし研究した。ほかの人はすべての結果は偶然にもタイミングよく重なり合って命を作り出したと信じている。 命の光は始まり奇跡的に生き残り発達し、5つの感覚や、自分で癒したり再生したりすることができる。 何の助けも借りずに もちろん時間のイオンが必要だったが、生きているもの消滅したもの両方、われわれが知る形の命と進化したのだ。

もちろんこれは2つの複雑な疑問をもたらす。

 

1.      もし宇宙で爆発が起きたら、全宇宙があるはずだがそれはどこから来たのだろう?

2.      すべてのものがもし生命の始まりならそのものはどこから来たのか?

 

命は生き残るために少しの必要不可欠なものがある。それらは水や太陽、光、食べ物などだ。

食べ物はそれ自体、命の形である。これもまたミステリーである もちろん化学的な栄養を話すこともできるがそれらはどこから来たのかまた地球にどうたどり着いたのか。あるいは地球がそれらにどう届いたのか

これらの栄養物はどこまでさかのぼるのかまた、それらは生命を支えるのに正しい栄養であったのはどうしてかなどミステリーだらけだ。

 

大都市を通り過ぎるとき、瓦礫が放り投げられる光景を眼にしたことがある。鉄、ガラス、木、プラスチックなどあらゆる物質が自然に埃と化していく。埃が落ち着くと、瓦礫のそばにある完全な形をしたテレビを見て驚いた。そこには必要な機械がすべて整っていた。信じられないことに自然に起こった偶然の環境で作られた完璧なデザインだった。私はもちろんそれに電源を入れなければいけなかった。それ自体は電気は起こせないが、悪いところはなくきれいに映った。 信じられますか?

 

監視する人なしで歩くことを許してくれる一方で私はあなたに訴えたいものがあります。にもかかわらず、知性的な人間はこのひとつよりも常識を逸したものに納得させられることがある。学校で教わるよりももっと驚くべきことです。

 

人間の体は最小のものであるといっても言いすぎでない。 テレビの機械よりも100倍複雑である。テレビは見たり聞いたり味わったり、においをかんだり癒したり、自身で再生したりすることはできない。 楽しみや悲しみ愛や憎しみ恐れ達成などを経験する感情はない。

どこへいける手段があるわけでもないし、その好みに適した環境を作ったり立てたりできる能力もない

しかし生徒が教室で座っていて、教育のある人が知的な形の利益なしで偶然すべての命が始まったと教えている。

多くの人は知らない人が書いた絵を買って壁にかけるが、それを作った人がいるということは信じて疑わない。なぜか? なぜならそれは完璧なデザインでそれはデザイナーがいなければいけないからだ

私は自分のテレビを作った人も知らないが、それが宇宙の爆発によって短期間の間にできたのでないことは知っている。すべての正しい結末が完璧な水平や垂直にコントロールされた色つきの絵が保障されるためにあったのではない。愚か者でもそれくらいはわかる。しかし疑問なしでこのドリブルを受け入れた生徒によって、彼らは人間の体とすべての生命体を信じる。いかなる技術の製品よりも精巧だが 大きな偶然による結果なのだ。

 

完璧なデザインにはデザイナーがいる。絵には絵描きがいるように、疑いなくわれわれの存在には想像したものがあるはずだ。われわれは神の創造物ですばらしく作られていて神を模倣するように形作られている。神の創造物として我々は我々の神としてあがめないわけにはいかない。理にかなってはいまいか?これは明確に神聖な論理ではないだろうか?

神がいないと信じるのは我々が存在しないことを信じることであり、これゆえ論理的ではない。

われわれ自身が神の存在のもっとも重大な証拠だということを論理的に証明した。次にかつて考えられた最も偉大な質問に目を向けてみよう。神はどこから来たのか?それに答えるにはすべての質問が事実の声明によって満足されるものではない。ある質問はほかの質問と一緒に答えられる。これはそのうちの一つである。神がいると信じる人は神が永遠なるものであるということを知っている。いわゆる神には始まりがないこと。論理的に考えるとこれは合理的であるように見える。

神が始まったときの正確な地点を知りたい人々にいくつかの質問がある。数式のパイの終わりは何か?3.1415で始まるが、最も高い番号はいくつか?最初の2つの質問は簡単だ。東から西の距離は?円のはじめと終わりは何か?神の敵はわれわれが神を信じさせないことです。われわれは始まりや終わりのないものを日常使っているがそれらを数えたことはないだろう。

円のはじめと終わりがないと信じたら神の敵はほとんど気にしないだろう。我々が使うものに始まりと終わりがないものがたくさんあるがそれを把握するのは困難である。神もそのひとつだ。

しかし神はその存在を認めるなら神は我々を大いに気にかけてくれるだろう。

 

神は始めと終わりを創造したが、この一般的な規則によって限られているわけではない。多くの人は神は霊的で精神的なものは世に存在し、物体的な法則に縛られずに働き続けると思っている。顕微鏡の世界は、我々が見たり感じたこともない物の大きなスペクトラムを開いた。これらはわれわれの生活に大きくかかわりを持っている。目に見える物体は目に見えない細胞でできているがその細胞は本物である。ミクロの世界は小さすぎてみることはできないが、神は霊的な存在ゆえに見えなくても細胞とは異なる。私が言いたいひとつのシンプルな真実は、見るということは神の存在を信じるため、あるいは信じないための理由にはならない、いうことである。

精神的な世界は存在する。人が歌うことにより、作られる音は音速の振動を作る。

しかし、それは重さが量れるだろうか?見ることはできるだろうか?触れることはできるだろうか?

それは物理的な世界でインパクトがあるが、命を与えた言葉によって、音の力は精神的なものになることが可能だ。物質的なものは物質的なものに影響されるが、精神的なものは、精神的なものによって直接影響されない物体的な応答を得るのに必要な精神的な刺激を始めることが可能な考えがある。しかし考えそのものは物体的ではない。

そこで提案したい。もし物体的なものが物質的なものを殺すなら(銃弾が人を殺すように)何か物体的でないものを殺すだろうか?考えを持つ脳を殺すことは水の入っているコップを壊すことによって水を破壊することに似ていないだろうか?体は命という力によって機能する。それには形や色や重さはあるだろうか?
いったん死んでしまった人の体からがんを取り除いても生き返らないように命は車の修理のようにはいかないのである。

物体的なものは見ることができるが、一番大切なものではない。肉体はただ個人の精神面による命令によって仕えるだけだ。目に見えるものは影響され、見えないものに支配される。考えと体感が体をコントロールする。

怒りは何色かどんな形かご存知ですか?我々の生活にさまざまな影響を及ぼす愛や平和や楽しみはどのように見えますか?それらは物質的なものでなければスピリチュアルなものであり、本当のものであることを認めることになる。ということで精神的な世界というものがあることになる。そして体はそれらを包む容器に過ぎない。これらの見えない精神的な世界の存在を否定することはすべての思考、感情、理由を否定することである。この論理はそれ自体が精神的である。

論理的に精神的な世界があると証明できたので我々の創造主、神様はもっとも大きな影響であり、中心である。

神の計画を壊すために肯定的に働く神の創造物における働きの中で神の意に反する力がある。この力は悪と呼ばれる。すべての悪の土台は破壊である。創造において2つの主な力が働く。最初に作り上げる力である。

次に神が作り上げたものを壊す力である。

 

1.      物体的と精神的な世界をコントロールするデザイナーである、神は存在する

2.      神は完璧なバランス、順序、容姿に仕立てた

3.      ほかの力は完璧な神の創造を破壊する力である

4.      神は時間や空間によって限られるのではなく、永遠な精神的な存在によって限られる

 

神の本質は創造物の論理的な評価によって決定される。神は人間に他の生命体に対し支配することを許したので、人間が神の創造物に好意的な地位を持っていると決定できる

我々の創造主が愛がなんであるかを知るには神が愛を持っていることを学ぶべきである

神は楽しみ、平和、忍耐、柔和、親切な性質であることがわかる。これはまた、嫉妬やねたみ、怒りも神の支配にゆだねられている。

我々は彼の創造した物を見ることによって神を知ることができる。しかし、すべてではない。神の能力は小さい宇宙の片隅において見つけることのできる大いなる奇跡を達成したものをはるかに超えている

我々は自分たちの体を見ることによって体は分泌液が備わっていることがわかる。

神は体の危険信号として痛みを与えるが、しかしそれは迫害や拷問の道具としてではなく、体に回復する機能があるのは神は憐れみ深く親切で壊れたものを直し欠いているものを回復する機能を我々に与えてくれた。神は残酷というよりも、もっとよいものであるはずだ。慈悲深くないものに反して、慈悲深い、自己中心よりも自己中心でないというふうに。

そういった神の慈悲深い性質は我々の免疫システムに見ることができる。このことから創造主について大切なことがわかる。

 

1.      神は想像したものに対してすべてを壊すために働く力が存在することを知っている。そこで創造主は創造したものに特別な自己防衛のためのものを与えた

2.      創造主はこの破壊的な力から我々を守るために神の愛と気遣ってくれる。この贈り物をなぜ我々に与えたのだろうか?

神は我々を傷つけるものから守ってくれるように気遣うと同時に、我々が無意識に自分たちを傷つけるものにも平等に気遣っている。無実ということは神の計画の産物ではなく、罪と呼ばれる破壊的なモラルのウィルスの実であるということから苦しむという可能性を論理的に考察してみたい。神はこのウィルスを宇宙に持ち込んだのではなく、他の力が持ち込んだ。それは我々を守るための免疫システムを作ったのと同じ力である。

論理的にいえば、我々の周りの想像物は信じられない秩序とバランスを作り出している。

それを誰も論理的に回避することはできないであろう。

我々はどんな創造主もそのような混乱を許すはずがないと思うに違いない。そのような彼の完璧な創造物へのダメージは彼の怒りを引き起こすだけだ。

神の注意は創造の労働から、これに反対する力に必要な防衛するものへと変化しなければいけない。

神の注意は建設することから修復し、守るものへと変わっていくだろう

特に戦争のような破壊の力へ貢献するため、このシナリオの論理における役割を無視してはいけない。

たとえば、父親が娘にコンクリートではなく芝生の上で遊ぶように行ったにもかかわらず、彼女がコンクリートの上で転んで怪我をした。彼女は自分で父親に従わなかったのに、父親のせいにできるだろうか?

もし、自分たちの破壊へ貢献するために自由の意思を使うのであれば我々の創造主に責任を押し付けることができるであろうか?創造主がこれらすべての悲劇をされる唯一の方法は、創造主に我々の意思を完全にコントロールすることをゆだねなくてはならない。

創造主の複雑さと達成を洞察することにより、創造主はひき続く創造物の中でひとつの誕生の間違いを直さずに残しておくことがわかる。これらの物体的な欠陥は我々の死すべき存在を超えた存在へ持ち越されることがないときに止まる、と結論するのが論理的である。

人間がよいものと映るものは創造主の反映として映らなければならない。しかし人間は同様にほかのものも映し出す。もし創造主がよいとするなら、彼の創造物の中で見つかる邪な物には責任がないと結論しなければならない。悪という力が今の時点でどのように存在するのかはわからないが、我々の破壊的な性質はそれが存在することを証明する。

我々は道徳的によいことをする意識を持っている。何が作り上げるもので、何が壊すものかを知っている。同時によいことの反対をしたいという、冒険心も持っている。その結果を省みない自己的な心である。我々非完全な人間が完璧な創造主に結束したら、彼の依頼に泥をつけることにならないか?

創造主との再結束は我々の今の状態では不可能だ。我々の現在の状態は汚れのない結束になるために完全に変わらなければならない。

汚染されてない源によって、すべての不純物は取り去らねばならない。この危険なウィルスに対するワクチンを作るには人間の弱点による弱められていない免疫をもつ人間を作る必要がある

もし神が霊的なものなら、彼は肉体や血はないし、その仕事には向いていない。媒体が使われるべきだ。ただし、破壊的な罪のウィルスに犯されていないことが条件だ。

抗体を得るにはこの強い媒体が悪いウィルスをやっつけなくてはいけない。

競争から作られた抗体がそれを受け入れるものに使われ、植えつけられるように血液を得るには肉体と血のある人間でなければいけない。

汚染されていない血液は罪のない人間から得なくてはならない。そんな人がいるのか?この中間媒体となる人は汚染されていないものから来ているべきで、その目的はよいものを保存し、悪を破壊するという使命があるべきだ。その人はよい力から得られる、神様、あるいは創造主から来ているべきで、それ以外は論理的ではない。

創造主は彼の物質から命を造られなければならない。彼自体は新しく別々の命に包まれている。それで罪のない免疫システムを試すために、彼を罪のウィルスにさらしてテストしなければいけない。癒す力ときれいにする力を受ける人々すべてからのウィルスを退治するためにである。

この中間媒体は、神の霊で満たされ自由な意思と肉体に満たされた人でなければいけない

これは危険なリスクに耐えることを伴う。破壊的な力に屈したら彼自身の免疫システムが罪のウィルスに妥協したら、自滅してしまう。

それはウィルスを無力にし、死を意味する。しかしこの中間物は存在するか?いまわれわれの間で見つけられるか?

彼の使命は達成できたか?我々は今まで話してきたすべての論理を最初に理解する歴史的な人物を探さねばならない。

すべての条件に見合う、単純な論理をつかって発見した問題を明らかにできた。だから今創造主に直接リンクできる個人を探します。その人は破滅の問題を理解し、しかしそれに影響されない人物です。彼は人間で破壊的なウィルスと対決する使命を知ってなければならない。

彼自身をウィルスにさらして打ち勝たねばならない。この勝利を通して人から出る罪を清めるために罪のウィルスを破壊する彼の霊的なワクチンが彼の血を通して人が創造主の元に帰れるように。

勝者の汚れのない血の浄化できる力を通して世界中のすべての宗教を拒否する前に論理的な結論に必要なものにあうかどうかを調べてはどうだろうか?

私がここで言う宗教はキリスト教です。それは感染してしまった罪のウィルスを治療する必要があると意識している人々によってなっています

約束された神様から油を注がれたイエスキリストは神から出て中間媒体を認識します

罪から解放されていて自由な意思のある罪のウィルスにさらしてそれを征服し彼の犠牲の血によって命を救う力をすべての人に提供します。

このクリスチャンである、イエスは存在したことが証明できるか?

それは簡単です。各世代は繰り返しキリストの存在に関する書類を残しています。イエスは新聞や法廷、学校、ビジネスの場でも登場してきます。

西暦もイエスの誕生からの年数を示しています。

もし彼の誕生から年を数えているなら、イエスが存在しなかったということができるでしょうか?

もしいないというのなら、私はその証拠を見たことがありません。イエスとその12人の弟子がいたことはJosephusというローマ政府に雇われた尊敬されているユダヤ人の歴史家の証でもあります。

Josephusの著作物は今日も見れますし、その歴史の記録の正確さは、受け入れられています。

Josephusは彼自身クリスチャンではないといってますが、イエスに近かった人たちはイエス自身のことをかたっています。

彼のユダヤの古典の20番目の本の中で、Josephusは寺院は崩壊に苦しみ、Josephusがとても宗教家とみなしたキリストの兄弟ヤコブにしたことのために、ここで聖書について語ってみたい。

イエスについて書かれた記述がたくさんある。法廷で証明書、預かり書は決まって証拠として扱われた。特にそれがほかの証言をサポートするとき、新約と呼ばれる聖書はキリストの存在について証をする。それに反するいかなる証拠を提示する信用に値するものは何もない。

我々は歴史的な人物として、ナザレのイエスを証明するものを加え続けることができる。

すでにイエスは本当に存在したのだと論理的な証明をした。

イエスは神の子か?もしイエスが我々の罪を清めるために来たのなら、創造の神は我々に教えてくれるはずだ。しかしどうやって?神の存在を信じていくつもの問題に気づいている人はこの情報を得るベストな候補者である。

プライドと虚無を持った人の性質は知能的な人間による分析ですべての問題を解決できると思っている。

それは間違いである。人の知能は繰り返し自分の間違いにうもれてしまっていることを明らかにしている。

悪に屈してしまうことによってはじめに人の霊を汚したのは、人の過ちだった。ウィルスを取り除こうとするのはただ問題を悪化するだけだ。

神がとる唯一の道は人の状況が完全に絶望的であると最初に示すことである。

創造主の存在を信じるグループがあるか?歴史上ではあった。ある特別な人が創造主、神を信じた。

彼らは創造主が愛と関心を示す神と信じた。彼らは神と対話することが可能だと信じた

この人たちの世代によってそのようなうわさや話が話されたことがあった。

これは神話だろうか?私が話しているのはアブラハムとその家族です。彼らは個人的な神を信じた

もし確かな歴史的事実出なければ、この人と創造主との関係を解消することができる

イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三大宗教はお互いに反するものであるが、アブラハムにおいては一致する。各宗教はアブラハムを創始者としている点で一致している。ユダヤ人は彼がイスラム教の父であると同意する。この男から2つの古典的な宗教が始まり、後にもうひとつの宗教が始まった

最初の2つの宗教のうちどちらかが神が自らを顕示すると決めたか?

それぞれの宗教は多くの信者を作ったがただ一つのみが神の顕現である人として選ばれた

これらの昔の人々への罪のウィルスの問題によって起こされたジレンマを神は明らかにする

あなた自身の祖先から来た国において、偉大で後世に継がれるものを作るのには時間がかかる。アブラハムの民は何世代もわたって成長した。アブラハムは奴隷の一人から生まれたイシャメルと言う息子を持った。

イシャメルは母から縁をきられ後にアラブ国となる元を作った。アブラハムとサラの間にできた息子アイザックは神が約束した息子だった。すべてのイスラエルが来るべき人物だ。「笑う人」という意味のアイザックは2人の息子がいた。後に名を「王子と年配者」と言う意味のイスラエルと変えた。

ヤコブそして祝福された猟師のエサウがいた。多重婚が禁止されるまでヤコブは2人の妻がいた。彼女らは姉妹でレアとラケルといった。レアは6人の息子を持ち、ラケルはヨセフとベンジャミンの2人を設けた。

彼は2人のメイドから生まれた息子がいた。

ラケルのメイド、ビルハはダンとナフタリそしてジルパからレアのメイドはガッドとアシャーがでた。計12人である。これらは後に12人の氏族となり、イスラエル国家を作った。(ユダヤの国として知られるヘブライの国)70あるヤコブの祖先すべてはファラオ王のもとでヨセフ(ラケルによるアブラハムの息子)が権力を握っている間起こった大飢饉の間エジプトで泉を作った。彼らは創造主が計画したとおり、そこに残り、国として発展するまで、増加し続けた。エジプト人はヘブライ国を迫害し続けた。その大きさと強さの増加がゆえに、神が選んだ人々の苦しみを気にかけて神はレビ族を誕生させた。モーゼと呼ばれる男のリーダーシップの下で。その男はヘブライ国のイスラエルを自由へと導いた。

最終的に創造主は人々を神を信じるように育て上げたが、すべての人が罪の汚れからの救いを必要としていると気づいているわけではなかった。モーゼを通して神はシンプルに10の規則を与えたが人々はそれを

守れないことが明らかになった。彼らは罪の中に死んでいたら、それは永遠に神との別れ、永遠の罰があることを知っていた。この点で神は人々が望むところに人々を導いていった。人々の絶望的な状態に気づいた人々に対して神は解決のために神を呼んで彼らを救い出すことが不可能なことを気づかせた。人々は罪に対する弱さに今気づいた。私たちも、この弱さに気づかねばいけない。

神は罪のウィルスへの最後の答えと理解するのに必要な原理を教える一時的な解決法を答えた。

無罪の羊の血を流すことによって人々は一時的な許しをえる。しかしいつまでも続くものではなかった。

手短に言えば完全な羊の血を流すことは罪のウィルスから一時的な救済を与える。

これが続いている間、神は完全な犠牲を用意した。

いつでも罪をウィルスに対応できる人、ワクチンを受け入れるすべての魂から完全に浄化する人、このワクチンは仲介者の罪にさらされた血を通して作られる。神自身の物質から作られた人。この血は罪に汚染されることを防いでくれる。

神はほかの存在に命を与える。神はそれに骨を与え、肉と血を与えた。神は人を映し出し、人が神を映し出すように人の感情や知的な限界を人に与えた。彼は人の強さと弱さのすべてを備えている。彼は創られた最初の人である。

この形において、彼は死に至る罪のウィルスに直接対立する。

彼はそのウィルスにさらされ、攻撃されることを許す。ウィルスは、彼を破壊し、打ち勝とうとする。もし彼が屈服するなら、すべての浄化するために人類を修復するための希望は失われるだろう。

しかし、もし彼がウィルスより強いと証明されたら彼の血は治療となるだろう。

そのような計画の論理は疑う余地はないが、この信じがたい戦略は世の中の文学的な作品に見ることができるであろうか?この論理を概略化した書物はほかにあるだろうか?世の莫大な宗教の間には神学的に奨励されるような計画はあるだろうか?その答えはYesです。キリスト教とそれに関する文学は聖書として知られる神の言葉と呼ばれます。その書物は神の作品です。もしこの本が創造主の作品なら来るべき扱いとそれをもたらすものについて語られているはずです。

神は彼の仲介者、彼のメッセンジャーについて語り、彼の息子が神の一人子というタイトルに帰すべき人物であり、神自身から出たものである。もしこの人の経験する出来事や人生が予期できたなら、その書物についての疑いを取り去ることができる。聖書はキリスト教については前のことを記録しているのでイエスが来る前にわたしたちに語られるためにイエスの前に生きていた人々を見ることは論理的である

彼らの証明は言葉と論理的証拠としてみなすことができる。もし彼について語られたことが他人によって有効化され実際に起こったのであれば。

聖書の冒頭でモーゼは彼と似たような人が後から来ると書いた。その人はより権威のある人(民数記18:15)でイエスが生まれる2000年前に書かれたこの同じ書物は来るべき救いはアブラハムと、イザク、ヤコブの世代に見られると書いてある。(創世記12:3、17:19、民数記24:17)

これらの事実はテント造りのパウロの書に見つけることができる。そして徴税人のマタイ、医者のルカ

すべての人はキリスト時代に生きていた。イエスを目撃したが彼の弟子が行った、全能の奇跡を証言してる。マゼランが地球を一周する前の2000年にわたり、イザヤという名前の聖書の預言者は神が地球の周囲に立っておられると預言し、地球が丸いと世の知識人すべてに証明した。人々が地球は平坦だと信じていたときにイザヤはこれを言った。(イザヤ40:22)

イザヤは神に使わされた救世主は小さな名もないユダヤベツヘレムという町に生まれると言った。これはアジア・ヨーロッパ・アフリカ大陸が一緒になる地点で命を授かり、彼が地球上すべての人々の救世主になることを意味している。

イエスの6000年前に生まれたもう一人の預言者はイエスが自分のために死ぬのではなく、ほかの人のために死ぬことになっているといっていた。30ADにイエスはイスラエル国の預言者は聖書の有名な人物というだけではなく受け入れられた歴史上の人物として知られている。その救世主は死を征し、復活するといっている。いろいろな人生から来た作家と40以上の作家によって1500年にわたって、少しずつ書かれたということを考慮すると驚くべき書物だといえる。同時にそれは、神による権威だといっている唯一の書物である。これらを書いた作者はお互いに違わないが、各人は完全な非の打ち所のない調和において顕示の流れを注いだ。論理的に超自然的なものとして表された唯一の統一の中で、知識人はそっけない態度をとって批判したり拒んだりしたが、それをうそだと証明したものもいなかった。科学書は正しく、知識が増えるにつれ、間違いが見つかり、年毎に新しくされるが聖書はそのような改正は必要ない。論理はそれが神の言葉として要求しているものであるからだ。

イエスは彼が主張したとおりの人物か?イエスが存在したことは証明したが、彼が主張したように神の子であったか?もし、彼が神の子なら、彼について話した預言者によって話された預言に即していなければならない。例えばダビデ王系統から出た処女から生まれなければいけないユデヤのベツヘレムで生まれ、2歳になる前にヘロデ王の無罪の人の殺戮を避けるため、エジプトに逃亡しなくてはいけない。

彼は神の子だといい、ガラリヤでミニストリをつくり預言者として知られていなければならない。

彼は傷ついた人を癒し、友人によって裏切られ、嘘の証言で責められる。ののしられ、打ちのめされて足と手に穴を開けられ理由もなく嫌われ、普通の犯罪者を十字架にかけられた。彼はのどの渇きをいやすための酢を勧められ彼の敵のために祈り、兵士は彼の衣服を賭けにして腹をやりでついたが骨は折らなかった。彼の友人は金持ちと一緒に埋葬したかったが、3日目に死からよみがえり天の父のもとへと上っていった。

すべてこれらのことは神の仲介者となる資格がある前に罪のウィルスからの救いの前になされなければならないことだった。預言者はイエスがすべてのことを話す前に生まれ、イエスがそれらを成し遂げた。

普通の人が成し遂げるのが可能として、これをすべて考慮することは論理的ではない。本当にただ一人の人間によってそのような出来事が成し遂げられるのは不可能と考えるほうがよい。

これらは人間のコントロールを超えたものであり、世の中は強い霊的な力の助けが必要です。

それが起こるかなり前から予期した預言者に現れた同じ霊的な力である。我々はどのようにして起こったのか疑問を持つべきだ。何の証拠を有効化しなければいけないが彼の生まれる前にこれらのことは予期されていたが彼と同じ時期に生きていた人はここで言及されたことを目撃し、記録していた。彼らの神聖なる証言によって聖書ですべては立証されすべての出来事の正確さを立証する名前と証言がある。

破壊の力この一人の人に対する強い力が反対したが、家から300マイルも離れたことのない人、政治的な政権も持ったことのない人私たちが成し遂げるような成功を達成しなかった。しかし、ほかの人が創造もしない様なものを超えて全世界に影響した。彼の敵は彼が神の子であると公に言ったため殺されたが彼が神の子であることを証明する目の前に置くための証拠を調べなかった。

死者をよみがえられたり、びっこの人を治したり、彼は皮膚病の人を治し、誰も彼を偽者であるとせめなっかった。しかし人を許したとき罪のウィルスをきれいにし、さらせたとき、彼は攻められ、逮捕され、処刑された。彼の敵は罪のウィルスを神の息子は効果的に対処すると知っていた。これを認める準備がなされた。彼ら自身の目で見たけれども、代わりに彼らは悪の力から彼はこの力を得たのだ、といった。

たとえそうでも彼らは病人を癒す力と死者をよみがえらせる力を持っていることを否定しなかった。最後に彼の全人生の教えていることは彼は罪のウィルスにかかわっていたすべてのことを理解しているという事実の目撃者を耐えるということだ。彼はその罪のウィルスを解決することにおいて重要な役割として彼を理解するために必要な神の論理の才能を持っている。

あなたは彼がそのようにいっている人物だとおもいますか?それはあなた次第です。もし、彼が罪の問題の解決法だと思わないなら、彼を否定することになります。

中間の道はありません。イエスを止めようとした同じ力が、今あなたを止めようとします。

もし神が本物なら悪の力も本物です。この論理を認めなくてはなりません。あなたは欺かれないために正しく学び、成長する教会を見つけなければいけません。教会とは何ですか?
教会はイエスキリストを賛美し学ぶために信者が集う体です。悪の力が宇宙とこの世と教会を支配しました。すべてを注意深くすべてのものを新約聖書にあるかもの言葉と比べてみましょう。教会はシンプルです。神の礼拝はシンプルで聖書的な真実です。神の言う真実は理解しやすいです。もしそうでないのならそれは神の真実とは違うものでしょう。聖書を読んで、神が記録した真実を映し出す先生を探しましょう。

本当のクリスチャンの人生の楽しみをしって、あなたを作られた創造主に使えられるように成長し続け霊的な家族を伴う人たちに仕えましょう。

多くの人はクリスチャンと自称しますが、キリスト教は言うだけではなくその中に生きるものです。神の言葉をチェックし何が本当のクリスチャンなのかを見ましょう。

そして信仰のある人たちから友達を選びましょう。神があなたを祝福し、神の意思を行うように神は罪のウィルスの支配からあなたを解放します。

あなたの創造主はあなたからの回答を待っています。イエスの血によって作られた救いの霊的なワクチンを受け入れますか?シンプルに神に聞いてみてあなたの罪をイエスの血で洗い流してイエスに人生の残りをささげてください。イエスの癒しの力に従ってくれるように頼んでみてください。罪は霊的な病気で霊的な治療が必要です。イエスは彼の犠牲を通して備えました。それを受け入れればすべての真実にあなたを導き、聖霊を与えてくれるでしょう。聖霊にこの御わざをゆだねてください。それが唯一の論理的なことです