彼の教会か私たちのものか(宗派)

[8.1]

21世紀は多くの教会のグループは宗派でないと主張する教会が現れた。NavigatorThe Way & Vineyardなどのグループである。それらのグループのいくつかは正式なメンバーシップを要求しない。これらのグループは典型的な施設の建物に集まり幾つかはカジュアルな家での集まりを好んだ。どこで会うかは別として、いくつかの共通点がある。各々は事務的に部分を集める、組織的な構造である。それぞれはローカルと法人レベルで機能するリーダーがいる。各々は凍った教義を教える。それはあとで説明しよう。

[8.2]

独立した教会の構造の人気が増えるにつれYouth for Christ Campus Crusade, Youth with Missionのような補助教会組織の人気も増えた。これらすべては教義的なラベルを避けている。多くは日中や多くの宗派の教会が集まる時間帯ではないときに集まる。こうすれば伝統的な教会からの批判を避けれるからだ。実際地元の教会に加わるように奨励することによって(多くの場合はメインラインに対してだが)それらは伝統的な教会の友達やパートナーとして見られる。Billy Graham Evangelic Crusadeは特にこの試みにおいて成功した。そして多くのメインライン教会はこの補助教会型アウトリーチを活動的に支持した。はじめは多くの補助教会組織はライバルとしてではなく、伝統的な制度的な教会の同胞として見られた。

[8.3]

誰が巨大宗派との争いを望もうか?世の中的にみれば論理は見出せる。補助教会は世界でもっとも強力な教会組織のいくつかのメンバーシップの割合を胸元に引き寄せることに成功した。

[8.4]

補助教会のすべての奉仕においてこのトレンドは多くのクリスチャンの心に対するリバイバルに火をつけた。その心とは彼らの救いに対する喜びである。ある意味で多くの新しい考えを生んだ。メインラインの宗派の考え方という教会にいくひとたちにからまった、へその緒を取り去った。これらの補助教会を宗派と呼ぶことができるであろうか?もし組織でないのなら、宗派とは何であろう?確かに補助教会は宗派である。しかしながら神によって権威化されておらず、聖書的でないならば、それは神の働きではない。それは人間の働きである。この時点で白黒を区別するのはやめよう。細事にこだわり大事を逸することがないようにしたいからだ。神の霊は個々への信者に宿っている。補助教会はその信者によって始められた。これら補助教会は神の御国を広げる目的で作られた。

そして実際に広がっていった。だからすべてが悪いというわけではない。それではどういう意味なのか?それは正しい人は正しい動機があるということだ。しかし乗り物が悪いのだ。たとえそれが悪い乗り物だとしても神の言葉をおし進めることができる。神の言葉は決して無効にはならない。霊の力において正しい乗り物はキリストによって2000年前におかれ、彼はそれを教会と呼んだ。

[8.5]

正しくも悪くも、これら新しい補助教会に何人もの人が集まる。その集まりに何千もの人がキリストの命に屈したのだ。しかし彼らが制度的な教会に戻ると新しくされた霊的な渇きと共に多くは枯渇が待っていることを発見した。この神の言葉の飢饉は死をもたらした。なぜなら彼らが与えられていた少ない古い、かび臭い食べ物で生き残ることはできないからである。

ここにジレンマがある。補助教会は多くの眠っていたクリスチャンを起こし、多くのノンクリスチャンをインスパイアさせた。神の言葉のミルクであるインスパイアされた説教を通してキリストの足元へと導いた。これらの補助教会によって与えられたミルクは霊によってスーパーチャージされた。唯一の問題は毎週毎週教会への参加を増やそうとして多くのメインライン教会宗派教会は救いのメッセージ(ミルク)を与えている。このミルクは炭酸の抜けたソーダのようなものだ。つまり、霊的なものがないということだ。

神の言葉のミルクは肉体の弱さにおいて与えられ、一週間の残り物を食べているようなものだ。ここにジレンマがある。補助教会は人を改革させることはできるが、彼らを維持できない。

彼らが固い硬直した状態になるまで他から他へと後ろや前に多くのクリスチャンは揺れるだろう。この時点で彼らはすべてを聞いたと感じるだろう。

教会が提供するすべてを見て一生続く、生ぬるい霊の平凡化へと後退する。

[8.6]

いくつかの補助教会組織は大きくなりすぎて多くの生産的な教会を取り巻く補助教会は超教派や無宗派と称している。たとえその基準が正式な宗派として満たされていても、それらは正式な宗派としてレッテルを貼られるのに抵抗する。

 

それらは組織名メンバーであることを要求されないかもしれないが、彼らの事情や集会を正式なリーダーシップで執り行われる。洗礼式は行わないかもしれないが、会衆に決まった教義を教える。ひとつの組織の傘に治め、ひとつの地球上の管理の下に、彼らは教会でも宗派でもないと主張していながら、メインラインの制度的な宗派のように凍りついた教義を教える。これらの補助教会、組織は同じ帝国の建物の空虚の犠牲者へと陥る。今日の宗派にあるような。

[8.7]凍りついた教義

ある日、一人の男性がボスのオフィスに入り、丁寧に給料の値上げをお願いした。ボスはその人の仕事にとても満足しているといったが、給料は上げられないといった。男性はなぜか尋ねた。今の時点でそれは会社のポリシーに反するとこたえた。男性はそのポリシーを返ることができる人に話をするようにお願いしたが上司はそれも会社のポリシーに反するとこたえた。その男性に言い訳をすることは可能だ。男性は返ることのできる人生や石を持っているがそのポリシーに理由付けをするにはどうしたらよいか?それはできない。変化は可能だ。ポリシーと座って話すことはできない。だから会社にはポリシーがある。

[8.8]

この同じ考えは凍りついた教義を話し合うときに当てはまる。教会の集会のメンバーによって保たれている不完全な教義を正しくすることはできるかもしれない。個人の教師を正すことはできるかもしれないが、すべての宗派の教義を考えることができようか?人生のすべてをこのタスクに捧げ、決して達成しない。第一、あなたを真剣に聞いてくれないだろう。もし、彼にそうしたら彼らはあなたと討論し彼らの方法に従うか去るように言うだろう。宗派では教義はプリントされ、石に刻まれ、ポリシーとなる。誰がポリシーを変えられるか?イエスでさえもパリサイ派の社会に入り込み、内側から変えようとはしなかった。彼はそれをよりよくするためシステムにとどまらなかった。彼は仕えようと順応し、礼拝し真実をシステムの外側から教えた。彼の元にパリサイ派から来るようにさせた。

パリサイ派の冷たい心をイエスは知っており、イエスによって支配されないが同じ凍りついた教義を教え続けている。

[8.9]

凍りついた教義とは何か?それは真実に屈することを拒む教義である。変化に対しガードを堅くする。正しかろうがそうでなかろうがすべてのチャレンジに対し独立化させる。

「私たちはこのように教えられてきた」とか「教会の父よりも優れた洞察があるのだろうか?」とか「これを理解するにはギリシア語を見なければいけない」というあいまいな表現の影に避難する。すべてのチャレンジに対する教義を守るための聖句のセットがプログラムされている。他の位置から見ようとはしない。たとえそれがリーズナブルで、御言葉でよく、サポートされていても。宗派とそのチャンピオンにとって、正しいということは真実において得ることや成長よりも重要だ。ホームチームである宗派を守り、その教義にある間違いを告白するよりももしバプテストやルーテル教会が間違っていることを見つけても、去る必要性を感じるかもしれない。間違っていると認め、宗派は聖書的でないと認めなくてはいけないかもしれない。(1コリント1:1113

そうではない!下のテキストをパウロ、アポロ、ゼファの代わりにルーテル、ウェスレアン、ウィリアムに名前を置き換えてみよう。

[8.10]

もう一度宗派は複数の教会の集会管理的な影響 補助教会組織は管理的な影響のある複数のクリスチャンの部分からなる。礼拝し、補助教会で御言葉を学ぶために集まるクリスチャンの間に間違いはあるか?宗派の教会と補助教会は凍った教義の卓越性を唱える。

あるものは正式なメンバーシップを持ちあるものはインフォーマルなメンバーシップを持つ。あるものは教会と称していて、あるものは信者の体と称している。あるものはフォーマルな設定で、あるものはそうでないところで集まる。各々はローカル、法人レベルでの専門的なリーダーを持っている。宗派というものを忘れないように定義したい。宗派は共有した人の企画したものの下で集められた、2つ以上の定期的に集まる、クリスチャンの集会である。もしアヒルのように歩くならばアヒルのようになき、泳げば、ほぼアヒルのようだ。これは宗派にも当てはまる。一度組織が補助教会、あるいは制度が別々のグループにクリスチャンを集めたら各々を管理し、凍った教義を教えるならそれば間違いなく宗派です。教義は凍ったまま出されてはいけない。教義はいつも真実に屈しなければならない。妥協する教義は生ぬるい。

 

[8.11]

ある人が妻と一緒にある人の家に招待された。特別なゲストをもてなしたくて、夕食用の高い肉を買いにいくといって出かけた。ゲストにはくつろいでくださいといい残した。彼らがしばらくして戻ったとき、友人が台所をアレンジしたことに気が付いた。もっと効率的だと思ったのだがショックと失望したことには彼らが新しいクローゼットをポーチに置いたことだ。彼は最もよいと思ってこのようにしたのだ。あなたがこのホストだったらどう思うか?許可をもらっていないのに彼の家で変更を行っていないだろうか?キリストが戻ってきて私たちが加え取り除いたり変えたりしたらキリストはどう思うか?私たちの善意を受け入れてくれるだろうか?

[8.12]

今日の教会においてもっとも悲劇なのは教会が彼らに属していないということに気づいていないということだ。教会はキリストに属し、罪の内地を持って買い取られた。私たちはそれと同じ罪のない血をもってそれを買い戻すこともできない。それは私たちが変えるのではない。キリストは完成された教会の青図面を与え、その当時でさえも多くのメンバーがそれを改善するためのアイデアを持っているが、キリストのスペックに正確に建設するための完全なモデルを使徒たちに残した。

[8.13]

誰がキリストのデザインを変えられようか?なぜモラル的に法的に彼の教会を変える権利が有ると考えるのか?私たちのものでもないのに! 私たちが変えるべきではないのにキリストは宗派のヘディングのの元で分割を認めたか?バプテスト派を恐れるべきなのはキリストの教会のかわりにバプテストの教会になることだ。もし教会がバプテストのものになるならカトリックやそのほかのブランドになることだ。これはもはや主のものではない。キリストはひとつの教会の後もどってくるのだ。「彼の」こ以外の他のものや誰かに属すのではない。教会に関してはキリストに排他的な所有権があり、そのほかの誰や何物や人が作った宗派に属することではない。イエスがその貴重な血で買い取ったシンプルで親愛で愛する教会はまだ迷っている幼児のようだ。それは教師の元に分かれるプレッシャーの下にすでにあるとき。(1コリント1:11-13

 

[8.14]

グループがアポロやペトロ、パウロのような認めるべきキリスト教師の教えの周りに形成され始めた。クロエはパウロにコリントから報告した。キリストの教えを分割して宗派化のための理由付けとして使ったものもいた。私たちの啓発や成長のために与えられた。すべての教え:私たちを集めるための教え、私たちの人生のための神の目的のよい理解を与えてくれるのは分裂と隔離のツールとなってしまった。

[8.15]

教会はしばしばキリストの体にたとえられる。私たちはその神のメンバーとみなされる。

体から離されたメンバーは生き残れるか?頭から除かれた目は見ることができるか?交わりから離れた口や足メンバーは体に仕えることができるだろうか?キリストの弟子である私たちは肉屋が肉を切り離すようにキリストの体を分裂する権利があるだろうか?

この部分を肩や他の部位とみなすことができるか?なぜ同じ間間違いを続けることができようか?ルーテルやウェスレアン、メノサイトと呼んでキリストの体を分けることを続けるのか?賢い人間の工夫によってではなく一致の絆や神の愛によってひとつの霊的な家にやっと成長するのか?いつ私たちは本当の一致の偽者を作り出す、信仰告白や、合法的契約や法人的な条文を燃やすことができるのか。これはイエスが立てた教会が一致するようにすることです。それは人の教会と多分に異なります。キリストの一致は霊的なものです。人の一致は一時的です。キリストの一致は永遠です。

[8.16]

私たちは自分たちが落ちる穴をみつけなければいけません。自分たちの心の中で何が宗派であるかを明確にしなくてはならない。自分たちがそのひとつになることを避けるために。

教会の構造を理解するための鍵は教会は誰のものか同意することです。誰が本当にリードするのか?御言葉やキリストが教会の鍵です。(コロサイ1.18)私たちは聖句を注意深く考えなければならない。「彼がすべてをなす」彼によってすべての一致がたもたれている。

もしキリストがすべてを一致させるのならすべての集まりは会合し、彼を押さなければならない。彼は卓越している。もし本当なら教会と称する各集まりはどんなによい意味を持っていても世の中の道具の世界から独立していなくてはならない。

イエスは聖霊の力を通して唯一の指揮者、権威、管理者であるべきだ。それが彼の教会であり、あるべきである。(使徒2:47の提言を考えてみよう)

[8.17]

教会に加えたのはリーダーではない。主である。彼の教会を立てるために主は我々の助けが必要なのではなく、彼の労働に我々を加えさせてくれるのである。

収穫の主は彼の畑に労力を送ってくれる。彼は私たちと働くことに喜ぶ。私たちは彼の教会に適用するようにみくにの成長をコントロールしたり、規制しようとしてはいけない。キリストが唯一の建築主であり、マスターでその収穫に誰が加わるかは神のみが決めるのである。キリストに仕えるものとして呼ばれるのを待たなくてはならない。私たちはハーベストに送られるために祈らなければならない。神のみが私たちを送り出すことができ、与えられていないコミッションを期待してはならない。与えられていない呼び出しに多くが答えてた。ある人は間違った召集に答え、彼の許可なしで、権威を握り、独断的に招集の境界を広げるために責任を負う。

マタイ9:38「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

[8.18]

教会の機能の一つは聖徒を備えることである。教会はフルに装備したとき聖徒がもっともよく備わる。それを支えるに必要なものと神様が思うギフトとリーダーが教会に備わるとき肉体的な理由や、肉体的な権威とは独立して機能し、動かす。一度教会が設立されればキリストのほうへ向くことは自由である。監督者を監督する使徒は必要ないし、委員会でもなく、信仰告白の署名した契約でもない。体を作る個々のクリスチャンのように神または人に仕えるのに自由にならなければならない。義として歩み神の言葉に従い、互いに愛しあるいは従わないということに対して。

[8.19]

自然な人の傾向は、彼の達成の祈念としての現世の帝国を組織することだ。制度的な教会はその建物の中でどれだけ彼に従う人ができるかによって、そして教会のプロジェクトを成功させたことでそのリーダーシップを計られる。 霊的な人の弱点は自然体の人の要求に彼の理由が影響することを許すことだ。彼は神を喜ばすミッションを忘れ、同時に人を喜ばそうとすることによって、神に仕えることに妥協することだ。彼の教会のリーダーを喜ばそうと理由付けしたり基金集めをしたりすることにより、神に自動的に喜ばれようとする。

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。(ガラテヤ1:10

今日のハウスチャーチの動きはこれらの現世食欲の犠牲となってしまっている。何人かのリーダーはすでに宗派を作り出すプロセスをはじめている。これはクリスチャンが宗派を理解していないときにおこる。宗派というのは:地上のリーダーシップを共有する元で、2つ以上の教会集会である。

[8:20]

御言葉によって教会が動き、機能したとき、神が植える道具は(使徒や植える人)自分でたち、転ぶことを許されなくてはならない。彼は忠告し、カウンセリングし、祈ることを続けるが監督者を監督してはいけない。すべての教会は1つのリーダーシップ(キリスト)に収まる。結局主は1つ、信仰は1つ、バプテズマは1つである。キリストが教会に戻ったときに主に会うだろう。もし、教会が一致を経験するなら、それは異なるレベル上でなければならない。神に選ばれた生徒のようにお互いを愛し、神が与えた知るための探求の結果として来るべきで人の共通のリーダーシップの元に集まる組織だからできたということであってはならない。イエスの御前において会う他の人にリーチアウトすることを切に欲することをまもなく見つける。家においてあう小さい独立したグループでは神の家族において他人のために楽観的にあくびをする。成長するための関係のための肥沃な土地を見つけようと望む。帝国建設の下にある人々は外にコンタクトを持つことに失望している。恐れと心配を持って他のクリスチャングループに近づくことを教えられている。クリスチャンはよく教えられれば弱虫ではない。偽の教義の風が吹くたびに倒れることはない。他の人と関係を築き、求めることが私たちは必要だ。もし私たちが愛しているのであれば、他の人との関係を築くことが必要だ。

[8.21]

初代教会についての本を書くことにより、今日のハウスチャーチのリーダーは認識されている。結局これはいいことで多くの制度化されたクリスチャンの教えを刺激してきた死んだ盲目の宗教システムの制限から多くの人を解放してきた。問題はハウスチャーチの運動への道を作ることはコリントの未熟な状態に近づいていることだ。コリントでは兄弟はパウロ、アポロ、ペテロの教えの元で分かれていた。彼らの承認してはなかった。パウロ、アポロ、ペテロなどのような分派を提唱せず、奨励もしなかった。1世紀のリーダーと違い今日のよく知られた著者や、リーダーはそのような分派を励まし始めた。いくつかのハウスチャーチは小さい家の教会の房をコントロールすることによってむなしい野望を前進させようとしている。コリントで行ったこれらのリーダーの教えをオープンに同一視する集会だ。

 

[8.22]

家の教会に集まる多くの人々は複数リーダーの価値を発見した。長老のカウンシルにおける知恵がある。個人の弟子は認識すべき責任の地位を考える用意がある。彼らに与えられた賜物を実行する機会を与えるべきだ。彼らが教えられた訓練と共に。複数のリーダーは与えられた集会の内で健康的だ。だから各教会はそれぞれの神を任命し、与えたリーダーを持つべきで、彼の群れを養い、ケアするための中心と重なる牧会者(長老から認めた)へブル13:17では「説明する必要があります」といっています。本当に各教会のリーダーは中心の牧会者が戻ってきたときいつか説明することになります。

「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」1ペトロ5:2-4

「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」ローマ14:12

[8.23]

そのリーダーが教えるとき、言葉や例で人と神の間の仲介者として権威を実行したり、他の群れを裁いたりする神との特別で特権的な関係があるとき、彼は神からの召集は何でも卓越する。その人、グループが一つ以上の集会(教会)に対してリーダーシップを決定するなら彼らはキリストに完成するものとして集められる。

キリストと教会の集会のどんなものでも間に中間の地位はない。彼は神と人と教会の唯一の牧会者である。

[8.24]

教会は霊的に建てられたもののプロセスの中にある一方、生きた石は集められる。教会として考慮はされない。しかしながらその働きが見つかり、それは進行中です。使徒(教会のプランター)は仕事に使わされ、適格な長老が見つかりサービスの地位に着くまでそれに対して権威を持っています。これが達成されたら宣教師(使徒)は降りなければいけません。彼らはアドバイスして励ましてこれらの教会に対して祈り、誓ってもよいか、邪魔をしてはいけない。教会のプランターは仕事に送られるが教会には送られない。使徒は外に送り出されるか内に送り込まれない。

彼は新しい教会の集会を耕すために呼ばれるが存在しているものを取り仕切られない。イエスが彼の仕事をすでに持っているからだ。(コロサイ1:18)

キリストが真実の唯一の教会における力と権威の中心であるべきだ。人間の体が単一の細胞を持っているように。各細胞は独立しているが共存している。独立した家の教会は体の細胞だ。完全だが他の教会にその健全な健康を頼っている。

独立した集会として、キリストの体をつなげるためのすべての集会に加わるべきである。

[8.25]

私たちは成功する教会は規則正しく集まり神とそのメンバーに対し、神との関係に強い関係を持っている。しかし本当の新約の教会における成長のサイクルは完全ではなく、他の教会との間で強い関係を持つまで、完全でなく、成熟していない。そのような関係は信頼と各教会の健康を有効にする。それらなしでは自分たち自身全体として考えることができない。もし教会のグループが個人的な指導的な長老リーダーや教えの元に統一されたからこれらの関係が出来上がったとしたら、それは失敗する。教会がそのような状況では主のための栄光の証はない。主イエスをあがめ、喜ばせるのは、従うことしかない。兄弟を愛するほかの人を優れたものと思い、神の家に属する人に対し親切で忍耐すべきです。教会の集会の統一は自由な選択として選ばなくてはいけない。教会として非自己的にプライドのない愛を通して、統一において集い他の理由ではありません。短く言うと私たちはすべての心を持っていく人のカリスマ的な委員会や律法的なことを生む契約でもなくリーダーによって合法化されたのではなく、自分たちで欲したので統一された、となるべきです。

[8.26]

小さな孤島となることを防ぐベストなことは家の教会のカンファレンスの高まりだ。これらのカンファレンスはお互いを知るための機会を与え、考えをシェアし、教えをシェアしたりする関係を促進する。他の教会の集会を訪問する。機会を与えてくれる。これらは今日続いており、他と同様に帝国を立てる議題を提供し知恵を与えてくれるように。私たちクリスチャンはよいものを励まし悪いものを取り除く。

[8.27]

将来サタンがこれらのカンファレンスに着目するとき、カンファレンスのリーダーを見てこれらの教会を有効化する。それを支え、支えないものに対して悪口を言う。そのような悪行と戦わねばならない。宗教的で政治的な党 すべて反するものをつぶし、人と神の間のほかの仲介者になることを探す間、それで反対しようとするものをつぶす。旧約では巡業者は一年に一度お参りに行った。これらは交わりと教えのための素晴らしい教会と幸せなときだ。今日のカンファレンスが愛において集い、成立するための機会になるようお祈りしましょう。私たちは家族であり、キリストが父であり、教会のリーダーです。自然的にみて地上的な家族は争いがありました。初代教会のメンバーの間に新約のページを見ることができる。本当にそれらは聖霊で満たされ、肉体的にもまた生きていた。クリスチャンにおいてこの戦争は激しくなる。霊と肉体は相反し、どちらもコントロールしたがっている。

[8.28]

自然的な地上の家族は若く、経験のない強大がいるかもしれないという事実を私たちは受け容れる。しばしばこれらの兄弟はすべての答えがわかり、古い子孫と両親を不満にさせるかもしれない。これが起こったとき、家族からこれらのプライド的な兄弟と姉妹を追い出すべきか?彼らを兄弟と見ることをやめるべきか?若者にいらいらさせられるように年上の兄弟姉妹を持つ年上の兄弟のほうがいつも正しいだろうか?

もちろん違う。私たちはすべての後世において年上のほうが正しいようである、と多くの場合認めてしまう。私たちよりも若い、経験が浅いクリスチャンがいる。

私たちよりも経験があり、しばしば霊的な開発において遅れている人々は後に私たちよりも成熟していることがわかる。これは知恵を神の言葉が他の人を自分よりも優れた者と考えよと神が言っているからかもしれません。一つの口と二つの耳があることを覚えておくことに利益があるかもしれません。多分それらを比率よく使うことを学ぶべきでしょう。真実を見つけることは正しくあることよりも利があることです。互いに違っていても家族のメンバーからはずしたり、霊的なハウスホールドで兄弟を仲間はずれにすべきではない。お互いに忍耐強く入れるよう神に祈りそれによって私たちの霊的な成熟さを示すことができよう。

[8.29]

宗派の教会に出席する多くの兄弟は1世紀の礼拝への回帰や家の教会の動きへを知らない。宗派は神の言葉に矛盾し、初代教会の使徒やシンプルで家につながった、新約の愛する教会への回帰を世界の多くの人が探しているということに気づいていない。私たちの多くはこれらのランクからきた;彼らに忍耐しましょう。私たちがすべての答えを持っていると思うとき、私たちの家族は一緒だからです。

[8.30]

最後に

神と人の間には一人だけの仲介者がいます。それは人間が作った組織ではありません。そして神から送られた唯一の人がすべての真実へと導いてくれます。そして彼は宗派ではありません(1テモテ2:5)(ヨハネ16:13