霊的な病

[2.1]
問題
新約聖書の終わりからクリスチャンは現実よりも夢となるために兄弟の間で一致することを見出した。新約の大部分で神の要求しているものはすべての信者の一致である。(1 コリント1:10)
2000年の教会史の中でなぜひどく失敗したのか?なぜ教会は神様の言葉に応えてこなかったのか。肉体的な努力は欠いていなかったが、このように我々の散々な記録を正そうとしてきた試みは失敗した。
一致という課題に直面したときリーダーたちは人による解決策でむなしく応答した。
それらはキリスト教の宗派分裂を与えた。使徒やキリスト教に基づいた構造ではない。
偽の教会の結果を生んだ役に立たない人間の知識的な努力によって契約や同意、議会や信条を使って彼らは人為的な集まりの見せ掛けを作り出した。サインした文書や律法的な弁論にサインして目隠しをしようとした。正しいもの悪いものを集め、それでうまくいくと思った。神の顕現の私的な理解を再現するような、それ自体聖書的な土台がない宗教的プロパガンダの学派を設立した。
「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(2ペテロ1:20-21)
[2.2]
結果
これらの結果は目標の反対の結果を生んだ。目的はひとつになることだが分裂のみを生み出した。おろかにも自分たちで一つとなることを目指したので神とひとつになることではなかった。最後の12人が死んだよりも傲慢な人間がリーダーをとるべくして現れた。
神の言葉を定義してほかの人に神の名において自分が必要と感じた権利を押し付けた。彼らは神の言葉によって支持されないが自分たちの命令を加えた。「人間の戒めを教えとして教えむなしく私をあがめている」(マタイ15:9)
[2.3]
我々が信じるもの
ある人はアメリカ人、イギリス人、アフリカ人、アジア人として生まれた。目の色は生まれつき違っているが、すべての人は人生を背負っている。生まれたところや、人種、目の色についてはどうすることもできない。それは我々の信条についても同じことだと多くの人は信じる。カトリックの家庭に生まれたらカトリック教徒、バプテスト派で信仰をはじめたら一生パブテストという風に。自分たちの霊的な遺産は変えることのできないものとして受け入れてしまう。
[2.4]
我々は神の言葉を推論において正しいと証明するために学ぶと教わっていません。(2テモテ2:15)あなたは適格者と認められて神の前に立つもの恥じるところのない働き手真理の言葉を正しく伝えるものとなるように努めなさい。代わりに私たちはカトリックやバプテストのプロパガンダに教義付けられて、これがよいカトリック、バプテストが信じるものですといわれた。自分がバプテストだからそれを信じて受け入れなければならない。自分たちに起こらない聖句に反対する教えをチェックした。もししたならリーダーに失望して異端のように感じさせる。ほかの人にどうして何を信じるべきかを言うことができよう?信心は個人の真実の探求を通してこなくてはならない。それは修正を受けなくてはいけない。真実に呼ばれるのを感じたら今まで持っていた信仰を放す覚悟があるべきだ。
[2.5]
余分なお荷物
多くの人は宗派との結びつきから逃れられるかもしれないが、その重荷から逃れられる人は少ないかもしれない。たとえ単体の無宗派の教会から去り、初期教会である使徒の教会に入ったとしてもペトロあるいはパウロとこれら我々がもつ尊敬し信頼する先生から受け継いだ教義について議論していることに気が付かされます。
[2.6] 
頭から頭、心から心
違う背景を持つ2人のクリスチャンが初めて会うとき、それは動物を引き合わせる儀式を見ているようだ。お互いに2匹のハリネズミが近寄っていくのを想像出来ますか?問題が生じます。お互い針を立てながらけん制し合う姿が想像できます。これらのクリスチャンが出会うのも同じようなものです。彼らはお互いに遠巻きに見て傷つけあうことを恐れ近づきません。彼らは矛先が同じ方向に向く方法を見つけることを望んでいます。それは霊的な方向へです。お互いの教義にぶつからないようにするのは難しいことです。傷つけあわないようにする唯一の方法は前方向へ頭からお互いに近づきあうことです。クリスチャンもそのように危険を覚悟してお互い歩み寄らねばなりません。ハリネズミのようにお互い近づきたいという要求がなければいけません。お互いの頭をくっつけるのに十分強い関係を築かねば心が近くなるのに十分にはならないでしょう。もしそのように自分の生活をキリストの心にゆだねなければお互いの前で神の前で自分をへりくだせるようにならなければヨハネ17:21での祈りの要求を満たすことはできないでしょう。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」
[2.7] 
どうしてひとつの調和、心にならなければ一つになりえようか?
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:1-8)
[2.8] 
霊的な病
しばしば主の名において召集されてくる人と接することがある。自分たちと同じように主に仕えている人たちである。一緒に合うとき、まるで新しい親戚を得たように結束感と喜びがある。その後、経験をシェアしたり付き合っていく中で教義についての違いを発見する私たちに教義が変わる必要があるという考えがあっただろうか?No!である。すぐに教義の壁が立ちはだかり、まるで私たちは霊的な病にかかったかのようにそこから逃げようとする。我々は彼らの教義が変わらなければいけないとすぐに感じる。そして彼らが私たちを病人と思い私たちも彼らに対してそう思う。私たちは一番よい表面的なスマイルをして、感情を隠そうとし、冷え切ってしまった感情や「また近いうちに合いましょう」といってまるで人生の危機から救われたかのように額から汗をぬぐってその状況から逃れます。
[2.9]
誰もが霊的な病気に陥ることができます。それに必要なものは本当であろうが偽であろうがあなたが見つけてきた一般的に信じられているものと違う教義なのです。もし真実を得ることができるなら、いったい誰がその病を持っているのか不思議だが、それは真実を持っている人かあるいは真実から遠ざかる人です。それをテーブルに置くのがいやな人や他人の信条と比較する人は、より明らかになる重圧の下でそれが粉々になるのを見たい人だ。霊的な病気がひどいほどプライドも大きい。プライドが自分たちがすべてを持ち合わせていると思わせる。我々が公平に彼から聞く前に彼の信条を裁いてしまうのはプライドで、それを聞こうとしないプライドが我々の交わりと成長を妨げるのだ。
[2.10] 
「教義」は汚れた言葉?
「教義」が汚れた言葉と捉えられるのは兄弟の間で分裂をしばしば引き起こすからです。教義は本当に分裂を引きおこすのでしょうか、それともすでに存在する分裂をあらわにするだけなのでしょうか。
[2.11]
教義という言葉は単に教えることを意味します。それは本当に悪い言葉でしょうか?以下の聖句から考慮してみてください。(使徒2:42 ローマ6:17, 16:17, 1テモテ1:3, 7-10, 1 テモテ4:6,16, 1テモテ6:3-5, II テモテ3:16, II テモテ4:2-3, テトス1:9, テトス2:1)
[2.12]
教義は分裂、それとも一致のためにあるのでしょうか?それはそれを教える、あるいは議論する人の動機にあるのではないでしょうか?神の教会のために作られた目標を考えてみてください。(1ヨハネ3:14)わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。この目標は達成可能でしょうか?神においてすべては可能です。私たちは神にとどまっていますか?そうなら一致が不可能でしょうか?それはエペソ4:1-6やコリント3:12-17にあるような平和に基づいた霊の一致というチャレンジに見合うことができないからでしょうか?
「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」エペソ4:1-6
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる絆です。」
「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」コロサイ3:12-17
[2.13]
なぜ一緒にならないのでしょう?これを変えるために過去のリーダーは何ができたでしょう?今私たちに何ができるでしょう?何をすべきでしょう?この状況を変えるため神はどのように姿をあらわされるでしょう?
[2.14]
誤診断
長い世代にわたって聖書の教義は霊的な病気の原因として非難されてきた。教議という言葉は神の人々の間で悪名高くなった。その言葉の使用は議論と分裂と同義語になった。このための診断を受け入れるクリスチャンを位置づけることはサタンに有利に働く。神の真実にどのようにたどりつくか?どのように本当の一致が実現するか?もし自分たちが正されることに対しオープンでなければどのように1コリント1:10にある神の要求を満たすことができるようか? お互いに話し合うことを避けていれば歩み寄ることもできないし霊的な病気の治療にもならない。その病気が流行するのを避ける。一致の欠如を教義のせいにしてきた。霊的な病気の原因は教義ではなくプライドである。
[2.15]
お互いに議論することを避けることはお互いに歩みよることにはならず、霊的な病気の治療にもならない。逃避はその病気を広めることになる。私たちの一致の欠如により教義を非難し、誤診を通して治療が中止されてしまった。霊的な病気の原因は教義ではなくプライドにあるのだ。
天国でのランクにおいて分裂をおこした同じプライドが地上で選ばれた神の人々の間で分裂を起こしているのだ。
「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って。いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」(イザヤ14:12-15)
「わたしはお前を/翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて/火の石の間を歩いていた。お前が創造された日から/お前の歩みは無垢であったが/ついに不正がお前の中に/見いだされるようになった。お前の取り引きが盛んになると/お前の中に不法が満ち/罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し/翼で覆うケルブであるお前を/火の石の間から滅ぼした。お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。」(エゼキエル28:14-17)
[2.16]
霊的な手術
肉体の病気は祈り、薬、手術などを通さなければ治療できない。どれもがゆだねることを必要としています。祈りは親愛な心と時間が必要で、薬は苦いし、手術は痛みを伴い回復の時間が必要です。
[2.17]
各々は一致すること同様に何らかの投資が必要です。クリスチャンが教義のことについて話すようになる前に病気の患者が準備するように霊的な手術に備えなければいけません。
結果として分裂という致命傷を負わないように我々の関係が霊的な手術をする前に整えられてなければいけません。癌を取り除いても手術の結果患者が死んでしまっては何もなりません。関係を作り上げることからはじめられるべきです。分裂の災難が結果として起こらないように。手術の結果、患者が死亡してしまっては癌を取り除く手術をして何の得があるのでしょうか?お互いを信用して愛し合う堅い関係を築けるまでその違いについては何もできません。
[2.18]
クローズの失敗
真実を追究するため2人のクリスチャンが近づくときお互い傷つけあう可能性があります。癌を取り除いても縫合に失敗すれば血友病を起こす可能性があります。友達の教義的な癌を取り除いても、出血したままであれば価値がありません。癌はのぞかれ成功したかに見えますが、やがて失血死してしまうでしょう。癌を取り除いたら直ちに自分たちの関係を見直さなければなりません。議論の中でダメージを追ってしまったかもしれません。関係を立て直すために時間すごすことが必要かも知れません。教義の違いに気づくのに成功したならばお互いにより近くなるはずです。一致が生まれる前には考えることと祈りが必要です。この重要な期間中は他の事柄を片付けようとしないでお互いにともに一緒にいることが必要です。
[2.19]
正しくあること、真実を求めること
これらの霊的な教義に入る2つのタイプのクリスチャンがいます。最初は正しくなければいけない、というタイプの人です。彼らはいつも相手の次に何を言おうか考えることに忙しくしています。最初からその相手の非正当性と彼らが正しいことを証明しようと考えています。新しいことを受け入れることは全てをもっていると考える彼らにとって難しいことです。彼らは修正されることを拒否し彼らの兄弟の見方を発見しようとする機会を受けようとは思いません。
[2.20]
2番目のタイプはプライドもなく、こだわっている教義も宗派もないクリスチャンです。彼らはただ真実がほしいと考えています。神の言葉において証明されるように、すばらしい霊的な理解によって立証されなければその教義を受け入れません。全ての真実を持つことによって偉大な聖書の教え人となりたいと思います。彼は他人の理解を調べてみようとしますが、同時に交わりを促進する真実に妥協しようとしません。彼はそのように聖書で教えているかどうかを調べます。
[2.21]
ナアマンの時代とイエスの時代を超えて継続していることが見られるように、皮膚病は人の肉体における疫病です。家族を引き離し、関係を壊し、体のパーツが文字通り腐って落ちていくように変形を起こし、恐れを通して拒否を引き起こします。しばしば苦しみからの解放からくるように死で終わる。霊的な皮膚病はその肉体に対当する鏡だ。それもまた関係を壊し、醜いクリスチャンのイメージを作り上げる。その結果、キリストの体の一部であるけれども、緩んで落ちてゆく。教義は霊的皮膚病の原因ではない。プライド、自己正当化、傲慢なプライドが原因なのだ。教会が霊的病の治療法を見つけてないからといって、治療が存在していないわけではない。それは存在する!神はこの時代に霊的病のための治療において明らかにした。神はご自身を現され、世界中にこのニュースとともに使徒を使わしたのだ。
[2.22]
主の教会は完全に一致するだろうか?いつかすべての人はこの疫病から癒えるのであろうか?私はこの時代にはないと思う。多くは聞き何人かは従い、他の者は暗闇を歩き、以前のように互いを拒否するだろう。治療のための処方をもらうだけでは不十分だ。それを満たし、受け取る必要がある。ナアマンは癒されないようになったか覚えていますか?(2列王記5:1-5)彼は正しい処方箋を持っていたが、悪い態度があり、そのために滅ぼされそうになった。彼がしもべのアドバイスを求めたとき、癒しが来ました。私の望みは神の僕を聞き、神の処方に従いキリストの体を切り裂く霊的な病から癒されることです。そうでなければ、無知の中を歩むことになります。ハリネズミが集まってきてきますが、私たちが許されているひとつのことをすることを拒みます。
[2.23]
一つの事
私たちがしていけないことは、過去の過ちを繰り返すことです。私たちの霊的な教え人が私たちのためにやろうとして失敗したことをこの世代のために行わなければいけません。彼らはある教え人や宗派の教義、自分たちの認めた宗派をいかなることがあってもしがみつくように教えられました。しばしばこれらの教義を私たちが霊的に誰で、何者であるかの集約であるようにみなします。それらは間違っていて、この指示によっておこされたダメージはキリストの体を傷つけた。私たちは同じミスを犯すことはできない。キリストの体が集まるときです。私たちは宗派のプライドの代償があっても真実のために信じていることを変えなければいけない。時間は減っていき、キリストの再臨は迫っている。もし今準備できないなら、いつだろう?
[2.24]
テーブルと棚
私たちはすべてをテーブルの上に出さなければならない。すべての教義、時間はすばらしい聖書的な洞察とともに倒れてしまうと感じる人にとってフェアゲームでなければいけない。聖書の真実の酸のテストにすべてを自発的にかけなければならない。私たちはこのテストを受ける前に、自分たちの動機と態度のテストを決めなければいけない。私たちの兄弟を悪いと証明することを望むか?勝さる者を現すことを望むか、真実を望むか?妥協することなしですべての思いが解消するまですべてがテーブルの上に出されなくてはいけない。今日解消できないものは明日まで棚にしまってもう一度見直すべきだ。棚とテーブルがきれいになるまでこのプロセスを続けるべきだ。これを理解するに足りる霊的成熟さをもつ人々にとって、議論(いわゆる失う側)の受け側にいたほうが正す側よりもはるかに利益的だ。 その訂正を受け入れれば成熟、知恵、知識へと成長するが、彼らは昨日よりも訂正された後の今日のほうがより整えられている。正しい人たち(訂正をする側)は謙虚になることを祈り、彼らの信じるもののいくつかの必要されている部分を啓蒙するように祈らなければならない。この取替え作業を妨げるものはプライド、自己中心、心の堅さである。
[2.25]
平和の絆
パウロはエペソ4:1-6でその召命にふさわしい道を歩むように兄弟にといている。彼はふさわしいという意味を説明している。彼はふさわしい、ということはすべての低いもの、やさしさ、長い苦しみを伴い、お互いを愛し合い、平和の絆において霊の一致を保つこと、と解釈した。これ以外の方法で振舞うことはその歩みが神の召命にふさわしくないということだ。福音を差し出す、あるいは受けるに成熟していない人と、神の家族でもない人と、教義の議論に幾度となくながされていないだろうか?一体どれくらい人が関係のために適切な基礎を築いていない人に対して教えようとしているだろうか?たとえその議論に勝っても兄弟姉妹を失って何の得があるだろうか?他人と聖句の真実について考えるために座る前に大切な質問をしなくてはいけない。
[2.26]
1. 兄弟と信頼と信用を得られるほど関係は強いか
2. 偏りのない真実を求める議論ができるよう、成熟しているか
3. 自分たちはよりよい理解と真実を得るため今のポジションをなげだすことができるか?
[2.27]
1コリント1章と12章、エペソ4章とピリピ2章をざっと見れば神にとってキリストの体の一員として一致がどれだけ重要か本当の信者ならばわかるだろう。もし弱い教義に私たちの一致が壊されたら、神はそれを喜ぶだろうか?キリストの体は啓発されたのだろうか?この状況は兄弟との議論を想定している。この結論を得るための最低限の素質に見合うと信じる人と議論を持つことが必要だ。つまり私たちは彼と一緒に座る前に同じ兄弟であるということを信じなければならない。
[2.28]
テーブルに戻る
イエスが聖餐式のテーブルに弟子を集めたとき、彼はパンを取り、割いて、これは私の体であなた方のために割かれた、と言った。人の罪のためにカルバリで十字架上で切り裂かれる肉体の体のシンボルであるパンを割いた。キリストの霊的な体は教会だ。今一度、弟子はテーブルに呼はれ、しかし今度は平和の霊で平和の結束において一致し、癒されるときであった。
[2.29]
我々は教えやすい心で謙遜と忍耐の態度を持って「平和の絆において結ばれて霊による一致を保つことを求めるよう」本当に聞く必要がある。私たちは神の霊的な体が完全なものを見る希望をもつならそのテーブルにつかなければいけない。
「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。」(詩篇34:18)
「主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。」(詩篇51:17)
「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)
[2.30]
上の聖句が道を照らす光となるようにお祈りしましょう。理由と真実のテーブルに兄弟的な聖餐式のテーブルに真実を求めつづけるためお互いに理解を示しあえるように。

神の真実は試練を恐れません!